映画『天地明察』から見る、日本暦の歴史

映画『天地明察』から見る、日本暦の歴史

現在使用されている暦についてその歴史を紐解いた映画『天地明察』が公開され、意外と知らない日本の暦形成までの苦悩と葛藤を知ることになった作品だ。何気なく使用しているカレンダーは、まだまだ世界でその技術を切磋琢磨して形成している。ここは天地明察のテーマにもなった暦を、ここでは映画と小説の内容と共に考えて考察するサイトとなっている。

世界基準で

世界暦の提案

暦において年毎に曜日が変更するシステムを不便に感じる、そんな風に考えた事がある人はいるだろうか。毎年同じように設定されていれば便利なのではと思いたくなるが、それはそれで結構不便なようにも感じられる。そもそも毎年同じ日と曜日が固定化させることが出来るかどうか、というのは可能なのだろうか。そういうところも少しばかり気になるところであるが、休みなどが毎年一定させているというのも正直面倒にも感じられる。ただそうして欲しいと考える人もいるだろう、ただ現在のグレゴリオ暦では毎年同じ日に同じ曜日が固定されている、なんて事は出来ない。

そんな中でグレゴリオ暦のこうした時代性に対して錯誤していると感じられるとして、とある学者がこのグレゴリオ暦を是正して改暦するべきであるとした提案をした。その提案の先にあるのは『世界暦の創造』であり、これを作成することによって世界各地で異なっている日にちと曜日などを世界共通にすることが出来る『固定暦にするべきだ』、そんなことを述べた学者がいた。名を『マルコ・マストロフィニ』というイタリア人の修道士であり、不便さを解消するために何とかならないかと提唱した。

そんな彼の提案にともない、もしも仮に世界暦という固定化された暦が形成されたとしたらどのような日常になるのか、考察してみよう。

世界暦とは

世界暦とは言い換えれば固定暦と称することになる、その内容には1月1日の新年初日を日曜日として固定し、それから12月31日までの期間については曜日を取り除いた余日とし、さらに閏年には2月29日を閏日とするのではなく、閏美から月と曜日を取り除いて余日の翌日に付加する暦法が世界暦の概案である。これがもしも実現したら1年間は364日となって、7で割り切れるようになって、毎年同じ日付の同じ曜日として定められる。曜日を取り除いた日となる無日曜を設ける提案については改暦案の参考例として扱われるようになり、1884年にフランス天文学会が改暦案を懸賞募集し、19世紀末から20世紀初頭にかけて様々な国際機関で改暦が議論されたときにおいても、複数の徐日案の暦法が議論の対象として扱われた。

その後1930年10月21日に『エリザベス・アケイリス』という女性が世界暦協会を設立すると、この時より世界暦を定めるべきだという運動が起こった。その後協会としての働きはカトリック教会を統括するバチカンの公認を受けることに成功し、現在の国際連合に何度も働きかけるなどして、なんと国連の理事会において改暦が提案されるまでに話が進展した。その議題に対してアメリカが猛反対したことによって、それまで世界暦改暦運動が盛んだった時期は下火となって1973年に彼女が亡くなると同時に協会も自然消滅してしまうのだった。その後世界暦協会に似た団体が誕生しているが関係性については明らかになっていない。現在はその団体はネット上を主戦場にして世界暦運動を展開している。

世界暦を導入できないわけ

議論はさておき、世界暦についての論争は今現在も騒がれているわけだが、統一することによって日程を大まかに把握することが出来るという点では納得できる。キリスト教徒の、カトリックではないプロテスタントといった派閥争いなどにおいても垣根を取り払って、同一の神を信奉する教徒同士でいがみ合いをすることも無くなるかもしれない。宗教的に考えれば確かにこの世界暦を導入することに意義はあるかもしれない、ただそれはあくまで信仰に限定した物の見方になってしまっているので、その点を一度落ち着けて考える必要が出てくる。

アメリカが国連会議において反対意見を提出したことも考えても、道理としてこの世界暦がもしも適用されたら問題がやはり出てくるからだ。では世界暦の問題点とは何か、少し取り上げてみよう。

  • 1年に1~2回とはいえ無曜日を儲けることによって、バビロニアの時代から数千年の伝統を持っている『週』という7日間のサイクルが断絶してしまうこと
  • アブラハムの宗教において、7日毎に安息日が定められている神との約束が変化してしまうこと
  • 13日の金曜日が1年に必ず4回も生じてしまうこと

欠点として挙げられる点には上記のようなものが取り上げられる。どれを見ても分かると思うが、伝統と宗教といった理念と信奉によって構成されているものだ。日本人はこう言ってはなんだが、宗教や自国の文化に対して興味関心を持っている人はそこまで多くないように見られる。内心ではそれなりに愛国心を過剰とは言わず持っているだろうが、それを目に見える形で表現することはないと考えている人もいるはずだ。別に間違ったことをしていると断罪したいのではなく、ただそうした情熱を海外の人々と比べた場合には、表現の仕方が消極的である。こうしたところでも日本人と海外の人々との格差的な違いを意味しているのだが、それだけ彼らにとって決して揺ぎないものだからこそ、信念を曲げる事が出来ないものだからこそ、大きな意味を有している。

そんな中で世界暦などというものが導入するべきであるといった意見が出てきたら慌てるのは当然、敬虔な信者たちだ。日本にもそれなりに伝統と文化に即した記念日は用意されているが、そこまで過剰に誰もが文化を重んじるような過ごし方をしているわけではない。だがキリスト教を初めとする海外の人々にとって宗教毎に定められた記念日は、重要な意味を要している。それが1つの暦を統一するべきだとする意見の元で統一されてしまえば、これまで宗教上大問題に発展してしまうからだ。

また無曜日を設けてしまえば何千年と積み上げてきた伝統を踏みにじりながら、その全てを破壊しかねない。世界暦の導入に際してはこうした問題をいかにして解決するかだろうが、この問題に関しては穏便に事が終焉しないと予期できるのはきのせいではないかもしれない。